たとえば君が人を喰らう化け物であっても

予告 3

第一章・たとえば君が他の誰かのものであっても

「あーくだらねぇなぁ」
無意識に口にしてしまった言葉に辟易する。特に何かがあったわけではない。いつものことだ。俺の頭の中は、食事中も、入浴中も、排泄の最中でさえ、いつ何をしていてもこの言葉が木霊している。
「何がくだらないのか?」
と問われても、口ごもってしまうのだが、強いて言うならば全てだ。
そうだな、現状を事例に挙げて説明してみよう。
午後四時。東京都立川市。夕暮れが差し迫るラブホテル前。
秋の終わりの心地良い風に吹かれながら電柱の陰に身を潜ませ、ターゲットの様子をうかがっているのは24歳で当然の如く独身の俺。
ターゲットは先ほどホテルに入った地味なスーツの七三分けの50歳の男。既婚者。子供二人。長女はもう高校生二年生。
男の職業は高校教師、現国を教えている。趣味は俳句と写経。
髪型、服装、職業、趣味を見て、あら、真面目な人ね! と思いきや、この男にはもう一つ趣味がある。
不倫だ。つい二時間前も、ご満悦な顔で地味目な二十一歳の元教え子とホテルの中へ消えていった。別に聖職者が不倫するなだとか、誰かが傷つくような恋愛が良くないなんてことを言うつもりもなければ微塵も思っていない。そもそも他人の色恋なんてものには興味はない。ただ、ホテルに入る直前に50過ぎのおっさんが二十歳そこそこの小娘に「愛しているよ」それに対し女も「私も愛しているよ」だとか、そんなことを言うのはくだらねぇ。こんなものに愛なんてものを介入させられると、途端に反吐が出る。他に愛人が二人いる男の方はともかく女はそれなりに真剣なのかもしれない。道徳という障害を乗り越えてしまうことで恋愛感情が深まるだろうこともわかる。だが、そんなものは手軽な障害だ。リスクは大きいが、努力なしで乗り越えられる壁でしかない。
在りもしない愛なんてものを無理やりに見出して悦に浸っているようにしか見えないだろ? 意地悪な見方をしている自覚はあるが「愛を免罪符にするんじゃないよ」と言ってやりたい気分だ。いや、まあ、そんなこともないか。本当に別にどうでもいいね。俺には関係ないから好きにしろよ。えーと、まあ、なんていうか、つまり世の中くだらないのだ。
後半、端折ってしまったような気がするので、もう一つ、こんな命題をもって「世の中」というものがいかにくだらないのかの証明をしてみよう。
【愛に本当に性行為は必要なのか?】
たとえば愛する人が何かの理由で性的に不能になってしまったとする。その結果、その相手との“愛”は消え去るのだろうか?
【否、消え去らない】
大概の人はこう答えるだろう。やはり愛は性行為の中にあるものではないからだ。
この命題から導かれる答えは一体何か?
それは、愛は尊いものである……ということではない。
その反対だ。
愛に性行為が必要ないならば、性行為にも愛が必要ないとうことになる。つまり「愛がどうこうとかうるせぇよ。別に誰とセックスしてもいいじゃないか」ということが証明されたことになる。性行為に愛の必要性が見出せなかったのだから、もう遠慮することなんてない。ほら、おっさん、好きにやれ。女、愛を高らかに叫べ。
この理論の先にある「本当の答え」とは何かというと、こんなことを考える俺がそもそも何よりも下らないということだ。とどのつまり、俺から見た世界はどんな細やかな事象ですらくだらないのだ。人間は他人の中から世界を見ることはできない。つまり、世の中くだらないのだ……まあ、なんていうか、暇だ。ただただ他人のセックスが終わるのを待っている間ってのはいかんともしがたい時間の流れを持てあましてしまう。
ぐだぐだとしているうちに、サービスタイムの三時間が経過した。
ホテル入口にターゲットの姿が現れた。

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