藤木の国のアリス~伽炉瑠博士の忘却装置~

藤木の国のアリス ~伽炉瑠博士の忘却装置~ 3


伽炉瑠博士の忘却装置・1

組子が泰葉の異変に気付いたのは二時間目の数学が終わった後の十分間の休み時間のことだった。
「組子! お昼一緒に食べようね」
 前の席に座る泰葉が笑顔で振り返って言ったのだ。
耳と目を疑い、正気も疑ってしまった。
実に半年ぶりの光景だったのだ。
「……あ、えっと、うん。食べようか」
断る理由も思い浮かばなかったので、ぎこちない笑顔を浮かべて返すことしかできなかった。
泰葉はそんな組子の様子を意にも返さず、まるで半年前の会話の続きを話すかのように「今日の学食のA定食はしょうが焼きだってさ」などとにっこりと笑って見せた。
ついに面と向かって罵られるのかもしれない、と血液があわ立つ感覚があった。
三時間目の現国は滞りなく授業は進み、四時間目がじりじりと近づいてきていた。
お腹がキリキリと痛むことに驚いた。精神的な要因で身体に影響が出たのは初めての経験だ。空恐ろしく感じながらも、他人ごとのように“話には聞いていたがこれがそうか”と合点がいった気持ちになった。
 現国の授業が終わると泰葉は立ち上がり、真横に立った。
組子は勉強熱心なはずもないのに終わったばかりの授業の復習をするフリをする。
「組子、一緒にトイレに行かない?」
 泰葉の声に反応し、露骨に体が縮こまってしまった。
「何をそんなに驚いているの?」と泰葉はケタケタ笑った。
組子の見立てではその声や表情に邪気は篭っていないように感じた。
二人で向かったトイレでも泰葉はにこにことしており、半年前にタイムスリップでもしたかのような錯覚に陥った。
鏡の前に二人並んで前髪を整えていると否が応でも泰葉と自分を比べてしまう。これも半年前と同じ。
相変わらずの白い肌、小さな顔、自分と同じくらいの背丈なのに腰の位置が遥かに高い……どうして泰葉ではなく私が選ばれなのだろうか?
いくら考えてもわからなかった。
 昼食時、約束どおりに二人して学食へ向かい、泰葉はA定食、組子はB定食のからあげ定食を注文した。食べる際には、しょうが焼き一枚とからあげ一個を交換した。半年前まで続いていた習慣だ。話題も尽きず、昨日見たテレビの話や先週出た新刊の漫画の話などを取りとめもなく話しながら時間は過ぎていった。
一向に例の話は出てこなかった。
“……泰葉は吹っ切ったのだろうか?”
 脳からの“注意しろ!”という命令とは裏腹にそんな希望が笑顔となって表面に浮かび上がってくる。しかし、この半年間、つい昨日まで露骨に自分を無視していた人間がまさに手のひらを返したように接してくること理由が、どうしても解せなかった。
胃痛は激しさを増した。
「うー、もうお腹一杯。なんだか学食って久しぶりだなあ。最近、ずっと来てなかったもんね。どうしてだろう?」
泰葉がとぼけているようにも見えないのが不思議で仕方がなかった。
「それにしても食べたなぁ」
泰葉はお腹をぽんぽんと叩くと制服の前ボタンを外した。
ブラウスも第二ボタンまで開けているので華奢な鎖骨が露わになった。
好きと通るほど白い……けれど……初めは見間違えだと思った。次に糸くずでもついているのかと思った。泰葉の右の鎖骨の上を平行に走る一直線の赤い筋を発見したのだ。
それとなく観察すると、それは出血こそ止まっているものの、未だヌラヌラと赤く光る真新しい傷口だった。
長さ10cmに届きそうなその傷は、素人目に鋭利な刃物でスパッと切られた跡のように見える。
「どうしたの、その傷?」
咄嗟のことで思わず警戒心を解いてしまったのか、その日、初めて自分から話しかけてしまった。
「え? あ、本当だ」
泰葉はたった今気付いたような顔をしたが、さほど驚いている様子はない。
傷口を人差し指でなぞりながら、
「ハートの5にやられたの」
 と言った。