弱虫時計と君だけの神様 ☆立ち読み①☆

イントロダクション

海の底のように深く暗い夜だった。

漆黒の海を漂う深海魚たちに光が差さないように、その女には希望がなかった。

締め切られたアパートの一室で電気もつけず視線を泳がせている。

小さな息遣いと自らの鼓動の音のみが頭の中に響く。

静けさは体積を持って重たく体に圧し掛かり、海草のようにただゆらゆらと立っているだけで精一杯だった。

どれくらい静寂が続いただろうか。

力なく立ち尽くしている女を痩身の男が後ろから抱きしめた。

「……君が裁かれる必要などどこにもない……君は悪くないのだから」

女はその手のひらをそっと握り返した。

「もう何も言わなくていい。辛いことや悲しいことなんてもう二度と考えなくていい。どんな決断も、君に関わる全ての決断を僕がしてあげるから。たとえばこんなのはどうだい?」

空気の入り込む隙間すら許さぬように男にきつく抱きしめられた。

「……全ては他の誰かが悪いのさ」

全身にナメクジが這ったような悪寒が走った。言葉にではない。耳元で囁かれた、およそまともとは思えない提案を簡単に受け入れそうになってしまう自分を空恐ろしく感じたのだ。
暗闇の中でもポタリと雫が畳に黒く染みこんでいくのが見えた。それを確認して初めて自分が泣いていることを自覚した。雫となって落ちる涙の波紋で感情が激しく揺さぶられる。

「……私……もう嫌だ。人間でいることに疲れた。何も考えたくない。貝殻とか、プラスチックとか、ネックレスのチェーンとかそんなただの物でいたい」

掠れた声でそれだけ言うと、大声で泣きわめいた。男が支えていなければ床をのた打ち回っていただろう。

「大丈夫」男が頬を寄せて囁いた。

「僕なら君をそんな物体のまま幸せにしてあげられる。そもそも、君は全く悪くないのだから。こうなってしまった原因はなんだろう? いつから人生が狂ってしまった? いったい誰が悪いの? いや、考えなくていい。ただ、少しだけ話して。君に全く罪がないことを念頭において過去を振り返ってごらん」

その言葉を聞くと全身の骨を抜かれたようにスルリと男の腕の中から抜け落ち、女は畳の上に崩れ落ちた。

「……あの人が悪いの。あんなに好きだったのに……それなのに私のことを捨てるから……ゴミみたいに捨てるから」

涙に濡れた声は震えている。悲しかったわけではない。全ての事柄の要因を外に作ったことに対する罪悪感で声が震えたのだ。

それが女にとっての最後の罪悪感となった。

女は先ほどの男の提案を受け入れた。全てを誰かの、時代の、外側のせいにして自らの半生を語りだした。それは悲しかったけれど、とても心地の良い時間だった。

話し終えると、またきつく抱きしめられた。

「僕が君を守ってあげる。だから大丈夫」

止め処無く頬を伝う涙をベロリと舐めあげられる。流れる涙の理由はすでに見当がつかなくなっていた。

「愛しているよ……葵さん。僕が君を愛しているから大丈夫。そういえば、悪い奴には罰を受けてもらわなければならないね。心配いらない。その必要があるかないかも僕が決めてあげるから。どちらにせよ簡単なことだ。そいつと同じにすればいいだけなんだ」

口づけを受け入れた女は瞳を閉じることもなく涙を流しながら薄い笑みを浮かべた。その表情からは嫌悪感も快楽も喜びも悲しみも読み取れなかった。全ての要因を外側に作った女の視線は空を彷徨い、もはや何も映らない。

足元に転がる包丁の突き刺さった男の死体すらも。

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