一年ぶりのブログ! 短編小説・月の上からさようなら

ドアノブが冷たかった。だとしても、私は微かな躊躇いを見せるわけにはいかなかったので、なんでもないようにドアノブを捻った。

二階建てのアパートの上階の一番奥にある部屋から外廊下へ出ると、外がぼんやりと明るかった。思わず携帯電話で時間を確認するが、21時。そんな時間ではない。

……夜空が発行している?

まさか、と思いつつも混乱した頭は夜空に光源を探してしまう。当然、そんなものは見当たらなかったが、明るさの理由はすぐにわかった。

地面が空を照らしていたのだ。

雪。

そう、降り積もった雪が街頭の明かりを反射し、夜を照らしていたのだ。

カーテンも閉め切った部屋で二時間も話し込んでいたので、まったく気付かなかったけれど、思い返してみると確かに底冷えするほど寒かった。その証拠に今でも鼻が氷のように冷たい。

廊下から見下ろすと、街頭の下には、ふわふわと綿のような雪が小さな風に揺られて舞っていた。廊下には申し訳程度の屋根があるので、直接雪に触れることはないが、少しでも風が吹くと、雪が降りこんでくるようで、隅のほうには、長いかまぼこのように雪が積もっていた。

頼りない蛍光灯の明かりの中を歩きだし、そろそろ玄関のドアが閉まる音が聞こえるはずだったが、いつまでたっても聞こえてこないので、何か挟まっているのかと思い、振り返ってみた。
すると、彼が気まずそうな……おそらく笑顔で私の背中を見送っていた。

そんな表情を見てしまった手前、目を逸らすわけにもいかず、私も似たような顔で彼に笑いかけてみた。

5秒。

彼が一向に声を発さないので、多少の腹立たしさを覚えながらも私のほうから声をかけた。

「なあに?」

「えっと……」彼は白い息に乗せて、相変わらずの力の抜けるような声で答えた。「あのさ……その、こんなときになんて言えばいいかわからなくて」

「そうだね」私のため息もやはり白かった。

「うーん。やっぱり“ありがとう”が妥当かな?」彼の笑顔に無理やりさが増す。

「なんか、そんな綺麗な言葉で終わらせるのも嘘っぽい気もするけれど……それしかないかもね。じゃ、私もありがとう」

私はわざとらしく小さく手を振ってみた。

しばし見つめ合うが、ふいに彼の視線が私を通り越した。

「――あれ? 雪?」

「今気付いたの? 鈍いねぇ」

「うるせえよ。へへへ。えっと、寒そうだしさ、送っていこうか? って違うか」

「うん。違うよね」

「へへへ」

「あはは」

二人で顔を合わせて小さく笑った。

彼とは四年間付き合っていた。思い返すといつでもこんな感じだったような気がする。始まりも、その最中も、そして最後も。

どちらからともなく気になりだして、どちらからともなく付き合いだして、気付いたら半同棲のように私はこの1LDKの部屋に入り浸っていた。

1LDKの部屋は良い時は広く、悪い時は狭かったな。

紛争地帯や、飢えに苦しむ地域で生きる人たちには本当に申し訳ないと思う。この四年間、どう差し引いても泣き顔よりも笑顔の時間のほうが長かったし、涙のほとんどはうれし涙だった。

それなのにもかかわらず私は常に言い知れぬ虚しさに脅かされていた。

指折り数えられるほど幸せな時間はたくさんあった。けれど、それと同時に虚無に似た感情が胸の中でひっそりと育っていた。

日に日に幸福は安いウーロンハイのように薄まっていた。

彼のことは嫌いではない。むしろ好きだ。ただ、愛しきれなかった。向こうも私に対する感情は似たり寄ったりだろう。

いつからだろうか。お互いがお互いを必要としているようで、お互いがお互いを何かの言い訳の道具にするようになったのは。

“そろそろ結婚だな”なんて思いながらも“長く付き合っていたから”“いい年齢だから”そんな理由だけが私たちを繋いでいたような気がする。とどのつまり、一人が寂しいから、恐ろしいから、別れを避けていただけだ。よくよく考えてみると、二人の始まりも同じ理由だったように思える。もちろん、付き合い始めはそれなりに燃え上がったけれど。

……私は、一人が好き、だなんて言いながら孤独が宇宙で一番怖いという不完全な人間で……いや、あれもこれも全て違うのかもしれない。

こうなってしまったからこそ、こう思っているだけのような気もする。

弱虫の偽善者。

言葉にさえできれば自己正当化できると思いこんでいるのだ、私の勝手な脳みそは。

自己正当化できない場合は、自分の至らなさを自分自身で責めることで帳尻を合わせているのだ、私の自分勝手な心は。

ともかく、小さな引き金はあったが、明確な理由もわからないまま、とうとう、相も変わらず、どちらからともなく、私たちに別れの日がやってきた。それが今日だっただけだ。

「じゃ、いくね」私は口を閉じて笑顔を作る。

「ああ。体に気をつけろよ」

後半、彼の声が震えた。

その声の震えが伝染したのか、張りつめていた心の琴線が震えた。

勝手なもんで、私は唐突に別れが悲しくなった。

――もうこの人に会えないんだ。この声を聞けないんだ。彼に二度と抱かれないんだ。イビキに悩まされることもないんだ。いつかどちらかが唐突に死んでしまっても、その事実すら耳に入ってこないんだ――

一瞬でゲリラ豪雨のような言葉が頭の中に降ってきた。降り積もる言葉の海に溺れてしまいそうになった私の両目がぼやけてしまう。

――泣くもんか――

私は子供のように歯を食いしばった。

きっとこの四年間、私は一切成長することができなかったのだろう。そして、終わったことにより、ようやくほんの少しだけ成長したのかもしれない。何しろ今の今になって初めて、虚しさすらも幸せの時間の一部だったことに気がついたのだから。

だからといって、それは一度出した結論を覆すような理由にはならなかった。

私は後ろ髪を引かれる思いを振り切り、踵を返した。

涙がこぼれそうだ。

「あのさ!」

彼がいきなり大きな声を出した。

「――やっぱり俺たちさ!」

廊下に響きわたる彼の声を聞いた瞬間に情けない泣き顔のまま振り返ってしまいたい衝動に駆られた。二時間もかけた別れ話を覆して“私、まだ彼のことを……”なんて何度もした思い違いをまた信じてしまいそうになる。それが、ただ単に楽な選択なだけだとわかっているのに、気づかないふりをしてしまいたくなる。

「もう一度やりなお――」彼の声は同じ温度で続いた。

目に溜まった涙があふれ出してしまう。きっとうまくいくわ……なんて、嘘っぱちが真実よりも重くなる。

私が振り返ろうとしたそのときだった。

強い風が吹いた。風に舞った綿雪が顔にまとわりついた。

私が涙と一緒に雪をぬぐうと「冷たい」なんて彼の声が同時に聞こえた。

涙を流していた痕跡が消えた顔で振り返ると、彼は大きく開いた口の中に入った雪を吐き出しているところだった。

「つめたっ。へへへ」

彼は間抜けた顔で笑う。その口にまた雪が入り「へへへ」と笑う。

「えへへ」私も釣られて笑ってしまった。

笑いながら私たちはお互い吐き出しかけた言葉を永遠に飲み込んだ。

「……ばいばい」

笑顔で手を振って、歩き出した。

もう振り返らなかった。

ずっと一緒いることも不可能ではなかったと思う。今日出した結論を忘れたふりをして生きて、生活に追われながら、いつの日か本当に忘れてしまう未来もあり得ただろう。

外階段に向かいながら雪を少し疎ましく思いながらも感謝した。

雪が降っていなかったら、絶対にすがっていた。

勘違いを自己正当化しながら生きてくことの意味を自分勝手に形作って生きていたに違いない。

ひらひらと舞う重さのない雪でなかったら、彼をまた愛することがいつの日かできたかもしれない。

それはきっと悪いことでは決してないし、むしろそれよりいい答えを人生の中で見つけることのほうが難しいかもしれない。

でも私はそんな私よりも、今の私のほうが好きだった。嘘を嘘だと知っていながら真実のふりをして生きていくことを選ばない正直な自分を誇りに思えた。

もう覆らない。

大げさなのは百も承知だが、私は、はらはら舞い落ちる冷たい雪のおかげで生まれ変わることができたのだ。

階段を降りようとすると、目の前に広がるいつもの道が雪に覆われていて、反射などではなく、世界自体が発光しているように見えた。

何かに似ていた。

階段を一歩一歩と下りながら、何に似ているのか、どの記憶と結びついているのかを考えてみた。

「……あ、アームストロング船長だ」

街灯に照らされた雪の降る道路は、いつだかテレビのドキュメント映像に似ていた。

そう、アポロ11号に乗り、人類初の月面着陸をしたアームストロング船長のドキュメントに。浮遊する宇宙のちりのように降る雪が無重力を演出し、まるで本当の月の上のようだった。

雪が降っていて本当によかった。

雪が降っていなかったら、私は泣きじゃくっていただろう。そして、彼の腕の中で虚しい幸せに溶けてしまっていただろう。家に帰ったら泣くかもしれない。明日になったら後悔するかもしれない。けれど、私は、決断することができた私を誇りに思うことができた。

だって、明日泣くともかぎらない。もしかしたら明日の私は希望に満ち溢れているかもしれないじゃないか。
カツカツと足音を響かせて、力強い足取りで階段を降りる。

私は階段の最後の段で一度止まると膝にグッと力を込めた。

そして、雪道へ、思いっきりジャンプした。

その瞬間、まるで無重力にでもなったかのように、世界がスローモーションになった。

私は無重力空間の中でつぶやいた。

「これは、ひとりの人類にとっては小さな一歩だが、私という一人の人間にとっては偉大な飛躍だ!」

久し振りに未来に大いに期待することができた。

その期待すらすぐに日常に溶けて消えて去ってしまうものだということを知りながらも前に進む覚悟が産声の産声が確かに聞こえた。

いい気分だ。

着地に失敗し、転んでしまったのはご愛敬。

こんなにいい気分なのだから、この止まらない涙はお尻が痛かっただけだ。

「……私は青かった」

ほらこんな気が利いたことも言えるのだから。

終わり

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