ショートショート 超短編小説「ペトリコール」

ペトリコール

七月下旬の夕方。大きな手で覆われたかのように急に空が暗くなった。

遠くで雷鳴が鳴ると、それを合図にしたかのように、冷たい風が吹く。

――ああ、夕立が来る――

空を見上げると、さっきまでの晴天が嘘のように分厚い雲で覆われていた。

鼻孔の奥をチリチリと刺激するような、雨とアスファルトが混じった香りが足元から立ち込めた。足元に視線をやると、すでにポツポツと黒い点が現れ出していた。

僕は慌てて、コンビニエンスストアの軒下に避難した。

灰皿の横に立ち、駐車場を眺めていると、雨とアスファルトの香りが一層強まり、直接脳に触られたような気になった。

すぐ止むだろうと、タバコを吸って夕立をやり過ごそうとしたが、スーツの胸ポケットから出てきたのはくしゃくしゃになった空箱。

店内で買おうかと思ったが、好きな香りだったので、しばらくそこに立ち、その香りを鼻から大きく吸い込んで溜息を吐いてみた。

そんな一瞬の間で、アスファルトを打つ黒い点は激しい雨で消えさってしまっていた。僕の好きな雨とアスファルトの香りも夕立に流されるように薄くなっていく。

香りが消え去ってしまう直前だった。

夕立の直前の空の下に背の低い女性の姿。その目には今にも零れてしまいそうな涙。

それはいつだかの風景だ。

僕は無意識に十年前のことを思い出していた。

僕には夢があった。

今思えば、他に何かがあったのなら、すぐに忘れてしまうような夢だったかもしれない。しかし、当時の僕にはそれ以外は何もなかった。いや、ないと思い込んでいた。彼女がいたのにもかかわらず。

思い通りにいかない暮らしと、明日への渇望の中で、僕は彼女の存在を忘れてしまった。

ありふれた恋の物語のように僕は彼女がいなくなって初めてその大切さに気付いた。

記憶の中の彼女に涙を流させないように、手を伸ばそうとするが、届く前に、ふっ、とその姿は消え去ってしまった。

気付くと空はまた晴天を取り戻していた。すると、一瞬前の彼女の泣き顔も、雨の香りも思い出せなくなってしまった。

僕は何もなかったかのように目的地へと再び歩き出した。

痛みというには曖昧すぎる刺激が胸に走る。

それでも僕の歩く速度は変わらなかった。

終わり

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